今週の卓話要約


「臓器移植で学んだこと」
石川県臓器移植推進財団理事長 津川 龍三氏

津川 龍三氏 私は昭和30年に金沢大学医学部を卒業しました。昭和33年春のこと、同級のF君が腎不全になったというのです。彼は「おれの病気は手術では治らんのだ」と言っていました。結局、3ヶ月後に彼は亡くなりました。
その頃アメリカでは、スターツルらが腎移植を始めていました。日本の手術レベルならできるはずだと、金大附属病院にいた私も腎移植をやろうと決心しました。"義を見てせざるは勇なきなり"の言葉を思い出しました。しばらくして、東大、阪大をはじめ6大学で腎移植の研究を始めることになり、金大も加わりました。昭和46年春に医学部の学生が腎不全となり、透析治療中に兄弟の腎移植の話が持ち上がりました。しかし、待ったがかかったのです。法医学の教授が私たちの計画を耳にし、病院長を呼び出しました。"君子危うきに近寄らず"ということだったのでしょう。病院長からやめた方がよかろうという話が出て、取りやめになりました。
私には愛校心はありましたが、金大での移植は希望無しと判断しました。しかし、素晴らしい効果が見込める腎移植の普及は近いだろうと思っていたので、あきらめませんでした。東京や大阪、京都でも移植が始まりました。そのため、移植に関する研究会、学会には必ず出席するようにしていました。
昭和47年春、4人を連れて内灘の金沢医科大に着任しました。40歳代の若い法医学の教授に腎移植の是非を聞いたところ、「どうぞどうぞやってください」とのことでした。これでできる、という確信を持ちました。これぞ"天の時 地の利 人の和"だと思いました。
第1例は昭和50年3月24日、阪大教授らが我々の病院に到着し、午後手術が始まり、3時間で終わりました。術後経過は順調でした。しかし、8例目では、極めて強い拒絶反応が起き、残念なことに移植腎を摘出し、免疫抑制剤の使用を止めました。
小立野の金大付属病院に胃がんで入院中の基礎医学の先生のお見舞いに行った時のことです。8例目の失敗のことを話すと、先生は「それはよい。君は貴重な経験をした。その原因を徹底的に調べれば同じことが起こらないようにすることができる。さらに、また起こった時にはすぐ対処できる方策を考えておける」と言われました。原因の徹底究明が大切だということを再認識しました。
クリスチャン・バーナードや先日お亡くなりになった和田寿郎先生が非難を浴びながら移植医療の道を開かれたことにつきましては、勇気ある行動だったと思っています。誰かが口火を開かなければ、物事は進まないものと思います。


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